こんにちは。
このブログを訪れていただきありがとうございます。
今回は、タイトルが強めですけど、動物の扱いに関して想うところを書いてみます。
最近、スマホにあがってくる「馬肉でつくられたドッグフード」の広告に、
ショックを受けています。
「どうしたら、犬に馬を食べさせよう。って発想になるんだろう?」
と・・・
ですが、改めて調べてみると、
『豚・牛・鶏・羊・馬・鹿・・』などの肉も、「犬に与えていい」ことになってるんですね。
(火を通したものを推奨ですが・・・)
犬は、肉食よりの雑食。だそうで。
もとは狼だから・・・と言われればそうですけど、
わたし個人は、犬に馬を食べさせる。という行為が、どうもしっくりこないのです。
実は、以前から、引退馬を殺処分にしない取り組みを応援しています。
この取り組みを知って『肥育場』も初めて知りました。
殺処分が前提の馬を、食肉に適するように肥えさせるための場。
だなんて・・・・
よく、
「馬のことを考えたら、安楽死させてあげる方が馬のため」
という理屈を耳にしますよね。
これ、馬、一頭一頭の想いを確認できる状態で言われてるなら、納得なのですが・・・
以前、わたしが四つ足肉を食べないことに関して、
「もし、わたしに、残留思念を読み取る能力があって、『食べてほしがって食肉になった』肉を選び取れるなら、喜んで食べます。」
と書いたことがあります。
本当に、家畜自身が「殺処分されることを望んでる」「食肉になることを望んでる」というのなら、なんの違和感も感じないと思います。
ですが、ほとんどがそうではなく・・・
『人間第一』『人間の価値観が唯一の基準』で展開してる『食肉文化』に違和感を感じるのです。
(わたしも、鶏肉は少しだけいただいています。こういう思いを持ちながら、感謝とともにいただいてます。)
そして思い出すのは、違和感を通り越して『残酷さ』を感じた『闘牛』文化のこと。
今から30年近く前に(20代前半の頃)、マドリッド(スペイン)を旅行していてのことです。
それまでテレビで見ていた『闘牛』は、『闘牛士が、赤い布をひらひらとさせて牛と闘うだけ』のイメージでした。
それが・・・
現実はとても残酷でした。
当時、「マドリッドを旅行してるのだから『闘牛』は絶対見たい」と、ウキウキして観に行ったんです。
最初は小さなサイズの牛に始まって、だんだんと大きな牛が登場して・・・
一回の観戦で3~4戦を観たでしょうか。
1戦目でショックを受けて氣持ちが萎えました。
その理由は・・・
闘った最後、牛をナイフで仕留めて殺し、ズルズルと引きずって退場していく。
という、想像したことのなかった光景を目にしたからです。
こちらのブログで、当時のわたしが感じたことと同じことを書いてくださっています。↓
そして、
引きずって退場した後は、そのまま、食肉加工場へ連れていかれ、
その日の内に肉となって、人間の胃に入る。
と聞かされました。
(その時聞いた話です。真偽のほどはわかりません。)
観戦の夜、連れていかれたレストランは、ビーフステーキが有名な店。
たぶん、『闘牛』を食すレストランだったのでしょう。
わたしからすると、1枚で2~3人分あると思える大きさのステーキが、
ひとりあたり、2枚ずつ、皿にドーーーンと乗って出てきました。
一応手はつけましたけど、食べきれるはずもなく。
周囲を見渡すと、その量を、お酒とともに、美味しそうに、当たり前に食す人たちばかり。
・『闘牛』という文化の副産物として、その量を食べているのか、
・たくさん食べたいから、沢山殺しているのか。
『闘牛』を目にしたことは、わたしの今の食生活に、間違いなく影響を与えています。
そんな『闘牛』文化も、今は、『反対派』が増えてきているのですね。
わたし自身、中世の過去世で、マタドール(闘牛士)だったことがあるそうで。
わたしの内にも在るものとして、
でも、そういう殺生は、もう、今世は選ばないと決めていて、
統合しての・・・今の食生活です。
こういう、子どもの頃から当たり前だった肉食生活が、氣づかないうちに、しっかりと肉体波動(周波数)に影響を与えてます。
以前、メタトロンで『科学的』に判明されたことを、シェアしたことがあります。↓
今回の記事は、肉を食べてるから残酷だと言うものではありません。
ただ、食肉となる前には、残酷な背景も存在したりする。ということのシェアです。
お肉をいただくときに、想いを馳せたい。と思うのです。
本当に、家畜自身が「殺処分されることを望んでる」「食肉になることを望んでる」というのなら、
わたし自身も、四つ足肉を食する日が来るかもしれないのですが・・・
なんとなく、シェアしたくなりました。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。
愛♡感謝
りかこ&アダム
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