『命をいただく』ことに関して。

こんにちは。

このブログを訪れていただきありがとうございます。


今回は、主に『食肉』に関して、わたし個人が思うところを書いてみます。




以前、今のわたしの食生活を知っている方から、尋ねられたことがあります。


「(四つ足の)お肉を食べたいと思うことは、もう無いのですか?」


と。




答えは・・・


「瞬間的には、あります。」


「でも、その直後に食べたくない理由の方が勝つので、結果的に食べないんです。」


と、なります。




瞬間的に食べたくなる。というのは・・・記憶によるもので。


たとえば、とんかつ屋さんの前で、おいしそうな『とんかつ』の写真を見たとき。とか、

テレビで『生姜焼き』を作ってるのを見た時。とか。


・『おいしくいただいてた自分』

・『おいしかった味』


を知ってますから、それが想い出されたときに「おいしそう・・」と瞬間的に思います。




ですが、もう、当時とは違って。


直後に、別な感覚が勝ってしまうのです。↓



そして、食べない背景として、


「もし、わたしに、残留思念を読み取る能力があって、『食べてほしがって食肉になった』肉を選び取れるなら、喜んで食べますが、わたしにその能力はなく、選び取れないので、最初からすべてを食べないようにしています。」


と、いうこともあります。




昔、四つ足肉をいただかなくなった頃、シャーマン文化が書かれてる本(だったと思います)の中で読んだことがあります。

(うろ覚えで失礼します)



・自分の命があとわずかだと知っている(寿命が近い)動物は、人間に狩らせること(食べてもらうこと)を許可する。

・シャーマンは、それを感じ取った動物だけを狩り、それ以外の(死ぬことを望んでいない)動物は狩らない。



これを読んだとき、すごく高揚しました。

「これが理想!」だと思ったのです。


同時に、自分にその能力が無いことにがっかりしました。





昨日、久しぶりに外で、鶏肉の入ったシチューをいただいたのですが、

その鶏肉の味が、なんとも不味くて。(鶏肉だけはかろうじていただいてます)


自宅で作って食べる分には、同じメニューにしても、まったく普通に食べれてるので、

「大丈夫だろう」と思ってのオーダーだったのですが・・・。


あまりの不味さに、


「この肉、どう扱われてたんだろう?(調理段階で)」


と考えている自分に氣づいて、自分でびっくりしました(笑)





昨日の、対極の話にも通じてます。




・寿命がきたり、何等かの事情で命を落とさなければならない動物が存在したから、

それを無駄にすることなくいただく人間が発生する。


のが、わたしの好みで。


・「お肉たべたーい」と欲する人間が存在するから、『食肉加工』が発生する。(命を落とすことを望んでいない動物の命までもを奪う)


のは、好みじゃないなぁ・・と。





これと似たようなことを、『ヒーラー』に関して、かつてのブログで書きました。


・『癒しが必要な人』『癒されたい人』が存在して初めて、『ヒーラー』が発生するのが理想であって、


・「ヒーラーになりたい!」「人を癒したい!」「集客したい!」人が存在することで、『癒しが必要なお客様』を発生させるのは、違いますよね。


と・・・。





氣の持ちかたとして、わたしが思うところは、こんな感じです。





お肉をおいしくいただいていた当時の自分も覚えてますし、『食肉』行為そのものを裁くことはしてません。


あくまでも、今のわたしの感覚に合わせると・・・


今の食生活が、一番、心地よいのです。



なんとなく書いてみたくなりました。





ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。


愛♡感謝

りかこ&アダム

カルテット (ツインスター&ツインレイ)/白い犬白い風

~肉体を持つ者と持たぬ者との『聖なる愛のパートナーシップ』~4つに分かれたひとつの魂(2組のツイン)が織りなす『愛と光に満ちた世界』~